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体験記:What it's like to...


第二次大戦で敵の手から逃れる

今泉 清詞
川越ロータリークラブ(日本)

 

ボロボロの靴を縄でぐるぐる巻きにして履いていた。小動物や野草を食べた時もあった。それでも私は、安全な場所にたどり着くことを願って歩きつづけた。自分も死ぬだろうと、毎日考えていた。明日には自分もこの世にいないかもしれない、そんな気持ちでいた。

同じ部隊の仲間のほとんどが、1944年、ビルマ(現ミャンマー)の国境に近いインパール(インド)での戦いで亡くなった。ほぼ全員、イギリス軍に囲まれて殺されたり、捕虜になったりした。私は、近くの川を渡る方法の調査を命じられたために生き残った。状況が違っていれば、私も死んでいただろう。

生き残った日本兵をイギリス軍が探していたので、私はビルマの山奥に逃れて潜んでいた。これは、第二次世界大戦の終戦間近のこと。当時は日本の勢いもなくなっていたので、食糧や兵器の補給は一切なかった。ほとんど何も残っていない状態で、険しい土地を日に20キロメートルほど歩いた。

やっと、ある家にたどり着いた。その家には一部屋しかなく、戸を開ければ家の中が全部見えてしまう。そこに住んでいた家族が私を家の中に迎え入れ、食べ物を与えてくれた。イギリス軍が来れば、寝台の下に隠れろと言ってかくまってくれた。イギリス人が去ると、「出ておいで」と言ってくれた。

終戦までは潜んで暮らしていた。移動しつづけたが、どこに行ってもそこの家族たちが私を迎え入れてくれた。イギリス軍に密告されるという心配はしていなかった。戦後になって、ほかの日本兵もミャンマー人たちにかくまってもらっていたことを知った。どこに行っても同じような話を聞いた。ミャンマー人たちは日本兵にとても親切にしてくれたのだ。

1946年に帰還し、ゼロから生活を立ち上げた。誰も開拓したがらない土地で農業を始め、何年も苦労した。誰もが貧しく、大変な時代だった。しかし、私は自分の経験から、生きようという気持ちさえあれば何とかなると知っていた。生き残る強さと意志が、私にはあった。その頃、ビルマの人たちの親切にどう恩返しできるかも考えはじめた。

その後、酪農を始めて生活も安定してきたので、『今泉記念ビルマ奨学会』を立ち上げた。日本に留学するミャンマー人学生のための奨学金制度で、1989年に最初の奨学金を授与した。現在までに200人ほどの学生が奨学金を受けている

日本に留学してくる学生たちの相談相手にもなった。目標は、祖国に繁栄をもたらすために必要な知識を身につけてもらうこと。次世代への投資こそ、赤の他人だった私を家に迎え入れてくれた人たちへの恩返しとして、私が思いついた一番の方法だった。戦友たちに安らかに眠ってもらうためにも、これが一番の方法だと思う。奨学金を受けた世代がミャンマーに平和と繁栄をもたらしてくれることを願っている。

聞き手:Vanessa Glavinskas, Reiko Tokiyama

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• イラスト:Sébastien Thibault

• この記事は『The Rotarian』誌2020年1月号に掲載されたものです。