Rotary.org: ザ・ロータリアン

 元ロータリー奨学生がラトビアと米国の架け橋に


 
 

イラスト:Roger Chouinard(再利用は認められません)

私は、ラトビアがまだソビエト連邦の一部だった1974年に生まれました。アメリカとの最初のつながりは、父とこっそり聴いたアメリカのラジオ「Voice of America」でした。父は子どもの頃シベリアに抑留され、スターリンの死後ラトビアに戻ってきました。父と母は、多くのラトビア人と同じように、ラトビアが独立国家となることを夢見ていました。

両親と同じ夢を持っていた私は、ラトビアで最初のロータリー財団国際親善奨学生として米国で勉強する機会に恵まれました。その頃、今の私が米国・ラトビア関係の本(「Latvia and the United States: A New Chapter in the Partnership(ラトビアと米国:パートナーシップの新世紀」)の編集に携わることになろうとは思っていませんでした。

ラトビアがソビエト連邦から独立したすぐ後の1991年に高校を卒業した私は、ラトビア大学に進学し、西洋の標準で政治学と国際関係を学ぶことができました。この点で、私はとても幸運だったと思います。ソビエト政権下では、同じ分野でも社会主義の観点からしか学ぶことができなかったでしょう。

ラトビアはその頃、政府機関の建て直しに取り組んでいたこともあり、大学を卒業したての私でもすぐにキャリアで活躍することができました。すべてが新しく、機会に満ち溢れていました。1995年、ラトビア議会で非常勤の仕事をしていた頃、ロータリー財団とリガ・ロータリー・クラブ(リガは私の故郷)による奨学金の話を耳にしました。リガ・ロータリー・クラブはラトビアで最初のクラブで、ソビエト占領下になる直前の1930年代に始まったことから、歴史の深いクラブだということが分かりました。

この奨学金は、米国フロリダ州のロータリー・クラブの推薦によるものですが、私はロータリーについてほとんど知識がありませんでした。米国で学び、教育を深める機会と捉えていました。結局フロリダ州ボカ・ラトンにあるリン大学に留学しました。生徒のほどんどはアメリカ人でしたが、中には中南米から来た留学生もいました。小さな欧州の国から来た私にとって、このような国際的な環境に慣れるのは一苦労でしたが、グローバルな視点を身につけることができました。

この留学生活で素晴らしかったことは、ロータリアンのスティーブ・レインさんと妻のアイリスさんとの出会いです。私は彼らを「フロリダの両親」と呼んでいます。いつも私のニーズに応え、意欲を高め、さまざまな支援を提供してくれたお二人。米国内のいろいろな場所へ案内してくれただけでなく、30以上ものロータリー・クラブの例会に連れて行ってくださいました。例会でラトビアについて紹介し、さまざまな背景を持つロータリアンと交流できたことは本当に素晴らしい経験でした。この経験をつむ中で、ロータリーという組織の理念や目的を学ぶことができました。また、新しい友人ができただけでなく、違う文化や宗教的背景を持つ人々との交流において、自信をつけることができました。

国際親善奨学生としての期間を終了したすぐ後、私はラトビア人として初めて、国連の事務官に任命されました。また、ラトビアを代表してジュネーブでも勤務しましたし、ボスニアでの選挙監視団の一員としても活動しました。その後、ラトビアで市民権と民主主義を推進するプロジェクト「Freedom House」で働き始めました。

冒頭でご紹介した本についてですが、在ワシントンD.C.のラトビア大使館、アメリカ・ラトビア協会と外交問題を専門とする東ヨーロッパ政策研究所が構想を練ったものです。ラトビアには、20世紀のほとんどをソビエトとナチスの占領下で過ごしたという悲劇的な歴史があります。ラトビアを含むバルト諸国は、第二次大戦以前は中立的立場を保っていました。「中立」という言葉は、平和という観点からすると聞こえは良いのですが、同時に孤立を意味します。小国で孤立するということは、独立性を失うリスクが高いということであり、それがまさにラトビアが経験したことでした。

このようなラトビアの歴史を扱ったこの本は同時に、ラトビアと米国がパートナーとして取り組んできた分野(防衛、経済、エネルギー、文化、科学、テクノロジーなど)を分析することで、両国の関係強化を目的としたものです。私の国際的経験と、ラトビア外務省とのつながりから、私はこの本の編集を依頼されました。著名な研究者やアナリストと協力するこの仕事は、大変名誉なものです。このような学術研究は私が最も得意とするところであり、現在私は欧州の国際的移民プロセスと政治に関する博士論文を執筆しています。

ここで家族についてご紹介します。私の妻は、ラトビア憲法裁判所(米国の最高裁判所と同等)の判事を務めています。私たちには12歳になる娘(ゼーン)がおり、すでに2度、米国を訪れています。

2011年、娘と私はロータリーのニューオーリンズ国際大会へ出席しました。本当に感動的で素晴らしい行事で、特に娘にとっては特別だったようです。英語を学び始めたばかりでしたが、講演者の表現力が素晴らしいためか、ほとんど内容を理解していました。特に、ビル・ゲイツ氏にお目にかかれたことは素晴らしい経験でした。娘はこの大会で、世界ではたくさんの人が苦しんでいること、世界をより良く安全な場所にするためには私たちが行動しなければならないということを学びました

私はロータリアンではありませんが、多くのロータリーのプロジェクトに関わっています。アーティストである私の母はひどい腰痛持ちなのですが、ラトビアの身体障害者を支援する団体の地元支局長を務めています。この団体の年次プロジェクトでは、地元のロータリー・クラブと協力し、さまざまな活動を行っています。私はその行事を支援するだけでなく、フロリダでお世話になったスティーブ・レインさんとも連絡を取り続けています。博士論文の最終発表が終わったら、米国の彼を訪ねようと思っています。これから、ロータリーともっと関われるようになればと望んでいます。

ラトビアが独立したとき、国で重視されたのは西洋国家との交流でした。インターネットやその他のテクノロジーが発達した今、この交流は政府や大規模な組織だけが行うものではなく、一人ひとりの市民も携わることができます。ロータリアンやロータリー平和フェローはその代表的存在です。ロータリーを通じて、私は世界中の人々とのネットワークを広げることができました。彼らは皆、自分が世界を変えることができると信じています。これこそ、ロータリーの力であり、私たちが未来へ希望を持つ理由です。


コメントを投稿する

*は入力必須項目です